2009/04/19

マット・ヒューム

以前、先生とUFCを観てたとき
「今の選手は、みんな似たようなスタイル。昔みたいに色んな競技の選手がそれぞれのスタイルで闘っていた方が面白かった。」とコメントが。気持ちはすごいよくわかる。

元々、UFCはエリオの長男、"話術マスター"ホリオンがグレイシー柔術の有効性を広めるために興した試合。
あえて細身の、どー見ても強そうには見えないホイスを出場させ
(ホリオン曰く「強そうなヒクソンでは意味が無かった」)
柔術が”他の格闘技”よりも優れているとアピールし拡大を狙ったもの。
結果として目論見は見事成功。一気に普及した柔術は、もはやホリオンひとりでどうこうできる次元ではなくなった。
(普及の恩恵を今、オレ自身も受けてるわけだ)

初期のUFCは競技をかけた闘いであって、負けることは"個人の敗戦"を超え、愛着のある競技、道場を根こそぎ否定されてしまいかねない本当に強烈な興行だった。

道場の存在意義をかける者、賞金目当ての選手、過激なルール。
出場している選手達の気持ち、意気込みはおそらく今のUFCの比じゃない。
市原の覚悟、キモの十字架、ホイスの目。
どれもこれもテンションが圧倒的に違う。

得体の知れない物を見たい下世話な気持ちも初期UFCを魅力的にしていたと思う。
カプ・クイアルア、キース・ハックニーの"ケンポー"、
片手だけはめられたボクシンググローブ。
初期のUFCがいかにイロモノ扱いされてたかって
日テレの「世界まる見え」で取り上げられたってことに尽きるんじゃないか。

初期のUFCには初期の面白さがあったと思うんだけど
一方で"何でもアリ=Vale Tudo"から"総合格闘技=MMA"と決闘から競技に変わった今のUFC(その他もろもろ)もすごく面白いと思っている。
MMAのための打撃、MMAのための柔術。
先日のDREAMでビビアーノの戦法が変わっていたのも個人的にはウェルカムだ。
(ただ戦極のシャンジには乗れないが)


VTのMMA化が推し進められたのにはいくつか要因があったと思う。

1つは、テレビの存在。日本もアメリカもテレビは無視できないメディア。
テレビ番組には極められた時間枠があるから、放送するためには試合に
時間制限を設けなくてはならない。
また素手による殴打は凄惨なシーンを引き起こしやすく、残酷な試合は放送できない。
オープンフィンガーグローブと時間制限はケンカを試合に変えたと思う。
(UFCの時間制限導入はホリオンとの別れを引き起こした。砂漠の理論)
(オープンフィンガーグローブはテレビへの配慮ばかりじゃないけど)
(オープンフィンガー、時間制限、膠着ブレイクが無かったとしたら勢力図は全然違うはず)


1つは、柔術の普及。
黎明期に圧倒的な力を誇ったためみんなが習得しようとする。
それこそが柔術側(というかホリオンか)の狙いだったワケだけど。
結果、柔術特有だった考え方は標準装備の技術に。
柔術の普及は初期~中期にかけて、出場選手のレベルを均衡させた大きな要因だと思う。


オリンピックレスラーの参戦も大きいと思う。
柔術が恐竜ならレスラーの登場は氷河期。
王国を築いた柔術陣営に、まさしく冷や水をぶっかけたメダリスト達。
アメリカの、それこそエリート・アスリートは金網の中を蹂躙しまくった。
身体そのもので全部をブッ飛ばす英雄達の参戦は
すっかり柔術かぶれになってた自分の心をブチブチとちぎってくれた。

幻想たっぷりだった柔術もレスラーには勝てんのか、と思い始めたところ
語ってくれたのがAMCパンクレイションのマット・ヒュームでした。
(タイトルが出て来るのが最後って・・・長かった)

マット・ヒュームネタ続きます。

2 件のコメント:

BTT さんのコメント...

頭突きが認められてた頃はレスラーが全盛でしたね


あの当時、あのルールならマーク・ケアー最強ですな



ケアーVSグージェウ観ると頭突きの前ではフルガードは意味なしと思いますた

ネラズリ さんのコメント...

オリンピックレスラーの活躍は衝撃でした。
ケアーについてはまた別に、思うところもあるけど。
このあとマット・ヒュームのレスラー懐疑論について書く予定なのですが、ケアーについてはちょっと別枠で考える必要があると思ってます。要はこのヒト重度のクスリ漬けだったわけで。

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